近田春夫に心から感動した

2011年3月28日

高木完さんのブログから転載

今僕が思うこと

地震が起こり、津波が押し寄せ、原発のニュースが入っってきた。そのあたりの細かい記憶は、もう定かではない。
最初の首相記者会見(正式にはメッセージ発信なのかもしれないが)の模様をTVで観ていた。
僕には首相や、ことに官房長官が案外リーダーシップを発揮しているように映った。
だが画面ではキャスターが「どうなんでしょうか?」とすこし納得のいかぬ風にもみえる面持ちで木村太郎に問いかけている。
すると木村太郎は全く躊躇することなく、
「いいと思います」
これで国民はとりあえず安心するでしょう、といった趣旨のことを述べた。
あ、このひとも自分と同じことを感じているんだと思ったら、少しホッとした。もし否定的なコメントだったら、きっと必要以上の不安が心に広がっていたに違いない。
今回、各地で暴動や略奪がほとんど見られないことを諸外国のメディアが伝えている。実際スーパーなどに立ち寄っても皆冷静で、また店側のサービスも誠実 で、あるいは、たまたまその場に居合わせた人同士が、普段にも増して自然にコミュニケーションを取り合っていたりと、まさにそうした「奇跡」を目の当たり にし思ったのは、これはひとつには”海外の評価”に後押しされた部分もあるのではないかということだ。つまり、自分たちにとっては当たり前の行動を、世界 はビックリして尊敬のまなざしで見ている。ならば、これから先もみっともない真似は出来ないぞ、という誇りにも似た心理の動きがあったのではないか。すく なくとも自身に問えばその可能性がないとはいえない。褒められれば勇気がわく。それは普遍的なことだと思うのだ。
ところで、新聞その他は当初、政府の対応などについて《危機管理チグハグ》といった批判的な見出しをよく載せていた。また、災害時の心理に詳しい専門家の談話として、
《「わかること、分からないことをはっきりさせて、説明するのが危機管理の基本だ。私たちのリスク観はもっと成熟しているのにバカにしている」》
などという記事もあり、こうしたものを読み、大丈夫かという気持ちにもなったのであるが、報道の内容はともかく、思ったのはいいまわしのことである。こ んな書き方はあきらかに人心を煽っていると思ったのだ。なぜというに、この事態において、国が我々国民のリスク観を”バカにする”なんてことはありえない からで——検証、批判は報道の第一義的な役目と承知の上でいうが——それを専門家の話として活字にすることの効果は、結果論的に申せば 「憎悪のブースト」以外にないだろう。
だがしかし、そのような”扇情的”物言いは、日を追うごとに減っていったようにも思える。気のせいなのだろうか?

いや、そうではない。

そこで冒頭の話にも重なるが、それは枝野官房長官が日々の記者会見のなかで本当に少しづづつ築き上げてきた”なにか”の賜物なのではないかと思ったので ある。”なにか”と書いてしまったのは適当なコトバが見つからないからだが、ハッキリいえるのはそれは枝野官房長官そのひとの「表現力」と無関係ではない ということだ。
表現とはすなわち何かを伝えようとすることだろう。ひとつのことを伝えるにも様々な表わしかたがある。先の”バカにしている”にしてもちょっといい方を変えれば、受け手は同じ意味を別の感情で受け止めることが出来たと思うのだ。
記者と官房長官のやり取りをみていて気付くのは、意地悪な「揚げ足取り」が減ってきていることだ。無論そんなことをやっている場合じゃないというのもあ るけれど、官房長官の表現にある種の抑止力(相手の心を鎮める力)があるというのもたしかなのではないか。同じ内容なら、一番落ち着いた形で人に届くよう な言葉、言い回し、トーンを意識して選んでいるように思えてならないのである。そうしたことが、自然と記者たちにも伝搬して、今度は質問も——同 じ内容でも——とげとげしさのない聞き方に変わってきた……。
繰り返しになるが、同じ内容でも選ぶ言葉によっては受け手のこころを「逆撫で」してしまう。知る限り、官房長官はそうした無神経なミスを一度も犯していない。だとしたらそれはとても評価されることではないか。
話は飛ぶが、サッカーなど選手が日の丸をしょって戦うのを観ていると、僕のようなものでもどうしても応援したくなる。だがそのとき出来るのは結局TVに向かって「がんばれ!」と心を込めることだけかもしれない。ならばそんなものが、本当に得点や勝利につながるのか?
僕は一応音楽家でステージに立つこともあるから、経験上いえるのだが、リスナーの気持ちというのは演奏していると本当に正直に伝わってくる。想い出して も最高のステージ、心に残るプレイといったものは、必ず客席のポジティヴな”気”が支えてくれていた時のものである。逆にいえば冷やかな客席ほど演奏をち ぢこませるものもない。まァ、それはプレイヤー側にまず問題のあることも多いのだが……。
いずれにせよ、ただ「がんばれ!」とシャウトするだけといい、(送る側の)想像以上に、応援という行為にパワーがあることを、職業上、僕は実感しているのだ。
この国難になんとか力を添えたいと思わぬ人はいない。申すまでもなく様々な形で民間の支援は途切れることなく続いている。僕も師である内田裕也の呼びか けに応じ、3月19日に街頭に立ち義援金集めなどの手伝いをしたがそれは今述べたような——応援の——意義、可能性を信じてのことだっ た。渋谷の街では支持してくれる人も多く、カンパも予想以上の額が集まったと思うが、はたしてこの巨大規模の災害を前にして、と考えると、あまりにも自身 の行いの非力であるその現実に、心の晴れることのなかったのも正直なところだ。
よく目にするのが『今、出来ること!』のスローガンだ。すこしでも余裕のある人ならそう考えるのは当たり前だ。では一体何をすればいいのか。著名人のコ メントなどをみるにつけ——普段よくものを考えているようなひとでさえ——たとえ応援しか出来ないにしろ、どこにむかってしたらいいの か、明確な対象を見つけあぐねている感が強い。そしておそらく、我々大多数も、同じように持って行き場のない、しかし強い気持ちを抱えて、手をこまねいて いるのではないか。
ならばである。僕は今、その気持ちを国、すなわち政府に向けてみてはどうかと思うのだ。国は、本当に未曾有のこの災害に、最終的な判断や責任を任されて いるのである。首相をはじめそれこそ命がけでことに臨んでいると思う。なのに世間は、うまくいって当然、失敗したら許さない、というスタンスを当たり前に とり過ぎていると僕は思うのだ。誰も応援なんかしやしない。褒めない。それでは上手くいくものも上手くいかないよ。
今我々は物凄い敵と戦っている。野球やサッカーだって、そんなとき、それぞれがばらばらに動いては、いい結果にはならない。なすべきことは先ずシステム としてチームとして一丸となることだ。それには——そのひとが誰だとして——リーダーの能力を最大限に発揮してもらうのが何よりの優先順 位だ。このことは間違いないことだろう。
なら、

菅を励ませ!
枝野を褒めよう!
国を信じよう。

みんなPK戦の応援を想い出してほしい。
失敗した選手を誰が責めたというのか。そんな日本人は一人もいなかった。
くどくど述べてきたが、もしやれることがみつからず、模索している人がいたら、頼みたい。それこそ、外国の首脳からのメッセージではないが、官邸に、
「我々はあなた方とともにある」
と、心のなかでもいいから、そう伝えてほしいのだ。
本当をいえば、政府にいいたいこと、不満は山ほどある。だが、僕はそれは後にしよう。 菅ジャパンは最大の敵と戦っている。
いまわれわれのなすべきことのひとつは、サムライニッポンを信じて応援することなのではないかと思うのである。

近田春夫

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いま、日本政府が信用できない、と騒いでいるみなさん。いまこそ自分の国を信じ、ガンバレ菅、ガンバレ枝野、ガンバレ自衛隊、ガンバレレスキューと祈ることが大切ではないか。信じないことによっておきる風評被害は回り回って自分をも滅ぼす。

自分の国を信じないでなにを信じるというんでしょうか。

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