うちのオヤジのちょっといい話

2014年10月6日

本日はちょっと時間があるので仕事に関係ない、ITにもデバイスにも関係無い話を書いとく。別に意味は無くて突然思い出した。たまには「感動するいい話」というのもいいかなと思いまして・・・

うちの親父は80代後半でまでぴんぴんしているのだが、戦時中は少年飛行兵になろうと予科練にいったはいいけど、飛行機が無くなって「震洋」という特攻隊に配属されて台湾にいました。

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↑ これ。ベニヤ製のモーターボートに爆弾積んで敵艦に突っ込むヤツ

しかし米軍は台湾に行かずに沖縄に行き、沖縄戦ではたくさんの犠牲者が出た。うちのオヤジは実際の戦闘経験は上空を飛ぶB25に高射砲を撃ったらマグレであたったという1回しかなくて帰国してきました。米軍が沖縄じゃ無くて台湾に行っていたらわたしはいませんでした。沖縄に行くたびにこのことを思い出す。

小さいときに神風特攻隊の映画をテレビで見ていて「なんで天皇陛下万歳って行って死ぬのかな、馬鹿じゃない?」って呟いたら親父が目を真っ赤にして「誰が本心からそんなこと言うか!!!みんな自分が死ぬことで家族が1日でも長く生きることができるだろうと思って逝ったんだ!!!」と怒鳴られて泣きました。

で、復員したときは高校1年でそれから猛勉強して2年飛び級して大阪大学の工学部に入り、母子家庭だったので働きながら勉強して卒業しました。就職活動では本田技研に内定したけど、当時はまだ町工場で原チャリ作ってるレベルで母親に「そんな会社に行くな」と猛烈に反対され、日本ステンレス(現在は合併して住友金属)に入社しました。いまでも「本田に行けば良かった」と後悔している。www

自分がまだ5歳くらいの時だが、会社では「将来の技術幹部候補に海外研修をさせる」ということで、アメリカからヨーロッパへ数ヶ月にわたり渡航させることになったわけですよ。当時はまだプロペラ機でアメリカまで飛べないのでハワイで給油のため1回着陸する運航だったらしい。

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イメージ写真です〜

戦後からたいして経過しているわけでは無く、外貨の持ち出しは200ドルとかに制限されていた。いくら昔だって200ドルで何週間も過ごすっていうのはめちゃくちゃきつい。親父は飛行機から外をぼんやりと見ていましたとさ。

ハワイに向かう機中で、隣の席の日系アメリカ人の人が話しかけてきた。戦時中ヨーロッパ戦線には日系部隊が投入された。家族は日系人の収容キャンプで人質として取られているのでみんな死にものぐるいで戦い、勇猛果敢で名をはせた。いまでもハワイの日系人の間では「あの人たちのおかげでいまの自分たちがある」と非常に尊敬されている。ハワイ島で日系部隊の生き残りの方(下半身不随のお爺さんです)と食事したことがあるが、レストランにはいるとそこにいた日系人はみんな総立ちで挨拶に来るくらいでびっくりした。ヨーロッパ戦線がおわったあと、通訳として太平洋戦線に投入され、米軍の統治下でもかなりの日系米軍人がいたのです。その方は軍役が終わって日本からハワイに帰るところだったという。

うちの親父はもと特攻隊員で相手は米国軍人。最初は打ち解けて話すレベルじゃなかったらしいが、ハワイに降りるとき、その方が突然、500ドル(だったかな??)くらいを握らせ、「もって行きなさい」と行ったらしい。当時の親父の給料が2万円だから、いまでいうと50〜60万円を渡された形で、当然びびって辞退したわけです。知らない人からお金もらうっていうのに抵抗もあるでしょう?そうしたらその方は

あなたにあげるのではない。日本のために使ってください

と、おっしゃったそうな。敗戦国の若者が欧米に技術を学びに行く。しかし200ドルでは本も買えない。あなたのような人がこれから日本を支えていくのだ。このお金はそれに使ってください。

もう号泣ですよ・・・。親父はありがたくそのお金を押し頂き、本とかを買ってきたそうです。お名前だけは聞いてきましたが詳しくは教えてくれなかった。

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実は自分が30代の時に親父を連れてハワイに行きまして、名前でいろいろ聞いたのですがわかりませんでした。当時でも親父よりけっこう上だったらしくもう亡くなっているかもしれないと思ってハワイの地で感謝を込めて手を合わせてきました。

余談ではあるが、そのあと親父はアメリカからヨーロッパに渡り、ドイツではビアホールに行ったらしい。当時、日本人とか全くいなくって、珍しげに声を掛けてくる。

「お前は戦争にいったのか」
「行った」
「陸軍か、空軍か」
「いや、海軍で特攻隊の生き残りだ」
「おおーーーー!!!」

と、元軍人のおっさんらが集まってきた。「俺たちは先に降伏したのに日本は一人でそのあとも頑張った」から「飲め」「飲め」になり、最後は「イタ公はマジで使えなかった、次はイタ公抜きでやろう」になったそうです。懲りないね。

終戦の日、震洋隊の若い中尉と下士官が2人、終戦に納得できないと出撃したそうです。でもそれは命令違反。親父たちは大荒れの海に総出でベニヤのモーターボートで繰り出して捜索したけど見つからなかった。しかしそのふたりは「脱走兵」となって靖国にはいれなかった。ずっと残った戦友で活動して20年くらい前にやっと靖国に奉ることが出来たといっておりました。戦争はイヤですね。

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